79号コラム(2014.02.03)
『あたり前があたり前ではない!?』
以前、中国の水事情を取り上げた番組を観たことがある。番組では、乾燥した
地域の小さな村の人々が、各家庭にある井戸から汲み上げた、わずかな水だけを
頼りに暮らす様子を取り上げていた。印象的だったのが、井戸の場所がわずか20
mぐらいしか離れていないのに、汲み上げられた水に大きな違いがあったことだ。
“甘い水”と“辛い水”と表現していたが、“辛い水”は、飲んだ子どもが下痢
をし、家畜の牛さえも飲みたがらないほどの水だという。“辛い水”の井戸の持
ち主は、時折、隣家に行き、“甘い水”を分けてくれるよう頭を下げるのだが、
大事な水なので、そう簡単に分けてはくれない。
ところで、私は、地理の授業で「日本ほど、水に恵まれた国はない」といつも
子どもたちに話してきた。日本では、どんな田舎に行っても水道があって、しか
も蛇口から出る水は安心して飲むことができる。こんな国は、世界でも希なのだ
と話してきた。今、日本は、汚水浄化装置や水道事業のノウハウを各国に輸出し
ている。水に関するもの以外にも、列車を正確に運行する技術や、宅配便サービ
スなどを輸出し始めた。日本人が、日本ではあたり前と思っていることが、世界
ではただごとではないことに気付いたのだ。
さて、わが国では、毎日、子どもたちが学校へ来て、勉強して、クラブ活動を
して、家に帰っていくといった光景がどこの学校でも見られる。しかし、このあ
たり前に見える光景も、見方を変えると、学校へ通える安心さが社会にあったり、
子ども自身の努力だったり、保護者の協力があったりと、さまざまなことの繊細
な積み重ねの賜なのであり、ただごとでない光景なのだと感じられる。そう考え
ると、登校する子どもたちを見て、「今日もよく学校に来たね」と愛おしい気持
ちになる。学校で、教師の前に子どもたちがいるということは、ただごとではな
いと思っている。(尚)
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